ユージン再訪記 吉田茂樹 95年 Math
なんて幸せ者なんだろう。こんな眩いばかりの季節にユージンに戻ってこられるなんて・・・、空を見上げると真っ青な空がどこまでも続いていた。青葉がキラキラと輝く6月中旬に、ボクは、第二の故郷に降り立った。
ルート99に出てすぐに、空港で借りたレンタカーの窓を全開にした。すると、初夏のすがすがしい空気が、勢いよく車内に入り込んできて、体中にユージンの匂いが染み渡った。
卒業してもう十年かぁ。高校時代、ラグビーの練習中に首を骨折するという大怪我をし、ボクは、その後遺症で今でも松葉杖をついている。そんなハンディを持ったボクに限りなくやさしかった街、ユージン。ここは、いつしか、ボクにとって故郷と呼べる街となった。
ボクは、その怪我のため、留学した時期が他人より遅かった。今年でもう四十歳になる。それでも、まるで学期末テストが終わって夏休みを迎えた学生のような、そんなウキウキした気分になっていた。ラジオから流れる曲に、ハンドルを握った手が、無意識にビートを刻んでいる。
と、それにしても懐かしい曲がラジオから流れてくる。この曲は、70年代に流行った、C・C・Rの「雨をみたかい」じゃあなかったかな。この街は時間が止まってしまっているのだろうか。
今回の再訪は、仕事のため、いや、むしろ無理やりそれらしい仕事を作って、この街にやってきた。実際、ボクは、自分がカメラマンだということを口実に、卒業以来、ほぼ毎年のように里帰りをしている。ユージンの近くの町で行われているヒッピーの祭典「オレゴン・カントリー・フェア」に参加するためだ。しかし、今回は違う時期に違った仕事を入れて、ユージンの街に一週間以上滞在するといううまい口実を作った。
オレゴン大学の同窓生ならば誰もがうらやむようなこの帰郷を、一人だけの思い出にするのはもったいないなぁ・・・運転をしながら、そんなことを思っていると、同じ頃に、この街で過ごした仲間の顔が脳裏をよぎっては消えていった。そうだ皆に手紙を書こう。そんな気持ちで、帰国後に、この原稿を書くことにした。
あの頃と今と、どこがどう変わって、何が変わっていないのか、なるべく詳細に分析をしながら、そして、懐かしい思い出に少しだけ切なくなりながら、皆さんにお伝えしたいと思う。
ヒッピーの聖地・ユージン
ひと昔からやって来たタイムトラベラーが、街について、すぐに感じるのは、なんと言っても車の多さであろう。ここ十年で人口が十万人から十三万人へと三十パーセントも増加したためだ。
にしても、小奇麗な新しい車が目につく・・・ちょっとまてよ、ここは、カウンターカルチャーの聖地ユージンじゃなかったのかい、と首を傾げたくなってしまうほどだ。
全米でも珍しい六十年代からのヒッピー文化の香りがする街は、我らが誇りだったはずだ。この街には、フォルクスワーゲンのトースター型のおんぼろバスが良く似合う。通称「ヒッピーバス」だ。すまし顔の新車が街を闊歩しているのが妙に鼻につくのは、ボクが昔の人間だからなのか。といっても、ボクのレンタカーも新品のフォード「トーラス」だけど・・・。
九十年代後半のアメリカ版バブル景気でこの街は、とてもきれいになった。まずは、ダウンタウンのユージン・ステーション。とても立派なバスターミナルが出来上がった。日本人学生に愛されたアジア人向け食料品店「RICE'N
SPICE」は、もうそこにはない。日本のドラマやバラエティの違法ビデオレンタルにお世話になった方々も多いはずだ。だが、ご心配無用。今じゃ、インターネットで、日本のテレビ番組は何でも違法にダウンロードできるらしい。一方、WESTにあったもう一つのアジア人向け食料品店「サンライズ」が成功し、事業を拡大、ウィラメット通りの南にあった郵便局を改装し数年前にオープンした。そのお店が、今でも、日本人学生たちの食生活を支えてくれている。そうそう、ダウンタウンにある図書館もとても立派になった。しばらく車を降りて、そのあたりを散策していると、「カッコウの巣の上」で有名な作家ケン・キージーの銅像を発見した。ケン・キージーは、ユージン出身の超有名なヒッピーだ。七十年代には、若者たちにマリファナやLSDで精神を解放しようと訴えたオピニオン・リーダー的な存在であった。後年はオレゴン大で教鞭をとり、二〇〇一年に他界した。まさか、銅像がダウンタウンに建っているとは・・・ヒッピー文化が、過去の遺物となり、形骸化して、遠い存在になってしまったような一抹の寂しさを覚えた。
我が母校へ
されど、われらが母校は、未だに、カウンターカルチャーの牙をむき出しにしているに違いない。なんといっても、イラク戦争真っ只中のこのご時世だ、学生たちが黙っているはずはないさ。そう期待して、キャンパスへと足を運んだ。
キャンパス内もここ数年驚くほどきれいになった。新しい図書館、新しいビジネス学部のビル、一時は閉鎖になっていた教育学部も再び開設され、今では看板学部の一つになっている。
壁一面にツタがからまり、歴史と伝統を漂わせていた、バスケット・ボール場「マッカーサー・コート」も新しくなり、ひげを剃って、久しぶりにお風呂で垢をすり落としたヒッピーのように、なんだか恥ずかしそうに立っている。その脇を抜けて、学生たちが集まるEMUに向かって歩いていると、後方からセグウェイに乗った男子学生に一気に抜かれた。セグウェイとは、二輪駆動の立って乗る乗り物で、時代を変える大発明という触れ込みで数年前に登場した。歩行補助装置とでもいうべきか。日本では道交法などの関係で、前評判のわりには普及せず、なりを潜めている。
二十一世紀のユージンに来てしまった。このときほど、タイムトラベラー気分をかみ締めた瞬間はなかった。
EMUも数年前に新しくなった。学生たちは、ノートパソコンを持ってくれば、無線LANを使い、どこからでもインターネットにつなげることができる。便利になったものだ。林檎マークのノートパソコンが目立つのは、なんともユージンらしい。リニューアルしたEMUのカフェの名前は、なんと、「Greatful
Bread」! 伝説のヒッピーバンド「Greatful Dead」をもじった名前だとすぐ気づいた方は、本物のユージン出身者としてここに認定します。リニューアルしたばかりのころは、スターバックスなどの大手コーヒー会社が校内に入ってきたが、現在は、学生たちの反対で、地元のコーヒー屋「アラン・ブロス」が、出店しているという。カウンターカルチャーの魂はこんなところにも息づいている。なんとなく嬉しくなった。
二十一世紀の反戦運動
ボクが、訪れたとき、EMUの中庭で、ちょうど何かイベントをやっている真っ最中だった。さては、反戦集会か。わくわくして外に出ると、ブッシュを支持する会の若者たちが、ぱりっとしたスーツを着て、胸に手を当て、国家を斉唱していた。目を疑うような光景だ。「この国をテロの脅威から救う偉大な指導者へ投票しよう」、星条旗を振り回し、興奮して若者が叫んでいた。まだ幼顔が残る白人の男の子だ。ボクは、そ知らぬ顔で、彼らに近づき、話を聞くことにした。
「この街では、ブッシュを支持しているなんて言うと、白い目で見られる。イラク戦争反対者が90%いる街だからね。ボクは、マイノリティだ。だからこそ、勇気を振り絞って、本当のことを言ってるのさ。ブッシュはアメリカの正義を体現している。本当はブッシュを支持している人間が、この街にだってもっといるはずなんだ。恐ろしくて言えないのさ」
通りがかりの学生たちが、罵声を浴びせる。
「恥を知れ!」
「お前ら、ブッシュに、男の急所を握られてるのがわからねぇのかっ!」
かれらのイデオロギーはともかく、こんな状況で、大統領選のためのブッシュ支持集会をやるのは確かに勇気があると、ボクは思わず感心してしまった。ここでブッシュ支持の集会を行う自由が残っているのは、民主主義国家の証だとも感じた。
それと、時を同じくして、図書館の前では、反戦集会が行われていた。昔ながらのプラカードを持った反戦集会ではなく、無用な戦争で命を落とした人々への祈りを捧げる会であった。100以上の棺が、黒いシーツをかけられ、ずらっと図書館の中庭に並べてあった。ところどころ星条旗に巻かれている棺もある。もちろん、本物の棺ではない。そこに、牧師のような人が立ち、この無用な戦いで命を落とした人々の名前といかにして命を落としたかを厳粛な雰囲気の中で淡々と読み上げていた。これもまた、ユージンらしい光景だ。
「学生の気質は、基本的には、昔とたいして変わらないんじゃないかな」
そう話してくれたのは、元芸術学部・学長のケン・オコーネル先生だ。先生と学校の近くのレストラン「グレンウッド」で、昼食をともにした。ケン先生は、ベトナム戦争のときに、通信兵として海軍に徴兵されたという。そして、この街に戻り、芸術を通し、反戦を訴えた。筋金入りのヒッピーだ。
ボクは、学生のヒッピー率が低くなっているような気がするとケン先生に話した。60年代とは言わないけれど、10年前と比べてもかなりヒッピーぽい学生が少なくなったと感じたからだ。ヒッピーのトレードマークのタイダイのシャツやインドの民族衣装を着た学生の代わりに、ミニスカートをはいた都会風な女子学生やラルフローレンのポロシャツを着た男子学生がやけに目立った。「ファッションは、だいぶ変わってきたけど、この街の学生のほとんどは、反ブッシュそして反戦を掲げているよ。ただ、六十年代のベトナム戦争当時との違いは、徴兵制(DRAFT)がないことかな。戦場に行かされるという恐怖がない分、昔のよう過激な反戦運動にはいたっていないんだ。ただ、気持ちは一緒だよ」
ケン先生の話には説得力があった。確かに、見た目だけで、反戦運動をするわけではない。この街に脈々と伝えられてきたカウンターカルチャーが体に染み付いた学生たちは、自然と、戦争という大きな流れを逆行する思想を持ち合わせている。その結果が、人口の90パーセントが戦争反対という、アメリカでも非常に珍しい街を作り出したのだ。
日本人の学生たちと語らう
ユージン滞在中、現役の日本人学生達のパーティーに招待されるという、栄誉ある機会を手にした。パーティーといっても、皆でおかずを持ち寄って、十数人で夕食を食べるというポットラック・パーティー。ボクが学生のころからこんなパーティーはよくあった。こういった気楽な集まりは、今でもなくなっていないらしい。どんな豪華なパーティーへの招待よりもボクは嬉しかった。丁度、卒業シーズンということで、その日は、日本に永久帰国する友人を皆で送るパーティーだった。
ボクも気分は、現役学生、が、実際に彼らの輪に入ると、やたらと浮いている。そりゃーそうだ。下手すると彼らの親御さんと同い年だもの。でも、なんとか、彼らの話題に入ろうとする。
ユージンがいかに、由緒正しい「ヒッピーの聖地」であるかを熱弁したり、イラク戦争などについて、話してみたものの、いまいち、皆、乗ってはこない。ボクは、まるで初めて高校で教鞭をとっている社会の先生みたいに、空振りしまくっていた。正直焦った。彼らは、日本にいる学生と同じように、「ヒッピーってなに?」というような顔で、話を聞いているのだ。EMUの「Greatful
Bread」の話もしてみたが、誰一人として感心していない。「Greatful Dead」ってなに?なのだ。まずい。と、そんな時、一人の男の子が、卒業をしてこの街を去っていく仲間への自作の歌を弾き語りし始めた。正確には、覚えていないが、「この街を去っていく友よ、ここで語り合った日々を忘れないでくれ。いつでも、ここへ戻って来い」というような内容だった。鳥肌が立つような臭い歌詞。ギター一本の朴訥とした演奏と歌。だけど、なぜか、すんなりと心に入ってくる。
理屈じゃないな。彼らもまた、この街で自由の空気を吸って生活してきたんだ。そう感じた瞬間、ようやく彼らの輪に中に入り込めた気がした。
さよなら、ユージン
帰国の日が近づいてきたある日、ボクは、どうしても懐かしい韓国料理を食べに行きたくなった。ウィラメット通りの南にあるペイレス・ドラッグストアの横の小さなレストラン「PLAZAカフェ」。韓国から移民したばかりの夫婦が始めた小さなレストランだが、とても味が良く、アジア人学生たちの口コミで、瞬く間に広まった。当時、地元紙にも「小さなお店の大きな成功」として、大々的に報道された。
目的の場所にたどり着くと、「ペイレス・ドラッグストア」は、なくなっていたが、そのレストランは、まだ営業していた。お店に入ると、おばさんがすぐに、話しかけてくれた。
「ずいぶん久しぶりね。どこにいってたの?」
ボクは、松葉杖をついているので、時々得をする。見た目がふけてもたいていの人は思い出してくれるのだ。
「おばちゃん、英語うまくなったね」と、ボクがふざけていうと恥ずかしそうにニコリと微笑んだ。だが、次のボクの一声で、おばさんの顔が見る見るうちに曇った。「おじさんは元気?」おばさんの目から大粒の涙があふれた。「数年前に病気で亡くなったの・・・」ボクの目にも何か熱いものがあふれ出しそうになった。今は、息子と二人でこの店を切り盛りしてるという。 その日、そこで食事をしたが、正直、あの頃よりも味が少し落ちてしまったような気がした。言葉も通じぬ国へ移民して、苦労して二人で築き上げた成功だ。おじさんがいなくなっても、どうにかがんばってほしい、ボクは、そう願わずにいられなかった。「また必ず来るからね」そう言って、おばさんに別れを告げた。お店の出口には、地元紙に掲載されたときのおじさんの写真が大きく貼ってあった。まるで、にこやかにそのお店を見守っているようだった。
あの時、あそこにあったレストランやお店が今はもうない。当然だけど、友達が住んでいた懐かしいアパートには知らない人が住んでいて、そのころ付き合っていた彼女との思い出の場所には、近代的なビルが建っていて・・・。本当に、あのころの友達はもうこの街にはいないのか・・・なんてことを空想したり、現実に戻ったり・・・。懐かしいけれど、どこか切ない・・・ボクのユージン再訪は、そんな流れた歳月を感じる旅であった。それと、同時に、時代や人は変われど、まったく変わらないユージンとも再会した。
古きを訪ね、新しきを知る「温故知新の旅」であり、新しき出会いから、古くとも変わらぬものの素晴らしさを知った旅・・・まぁ、こんなまとめが、四十歳のオヤジらしく、今のボクには妥当かもしれない。今度来るときには、あの頃の友人たちときたいなぁ。いや、また、新しい仲間と出会いにこようか。そうだ、今度は、孫ぐらいの年の学生たちと語らいにくるのもいい。さようなら、ユージン。かならず、また、ここへやってくるよ。
2004年7月31日
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