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■ DUCKS TALK バックナンバー
ユージン再訪記
(吉田茂樹-95年 Math)
ロシアの虚像と実像
(桑田泰弘-67年 Journalism)
Pursuit of A Dream
(静谷大輔-98年 Business)
オレゴン〜バリャドリード 学びの旅
(秋山正幸-65年 English)
民族問題として見たアフガン問題
(原百年-93年 Int'l Studies)
夢を追いかけて
オレゴンで自給自足の学校を作る

(堀切幸治-92年 Sociology)
ヨルダン体験
(河村多恵子-94年 Int'l Studies)


 

 

 

 

 

 

Pursuit of A Dream            静谷大輔 98年 Business

 野茂秀雄がロサンゼルス・ドジャースでセンセーショナルなデビューを飾った1995年の冬、私は大学の友人と一緒に、トム・ハンクス主演映画「フォレスト・ガンプ」を観た。映画の中の1シーンで彼がアメリカ横断を何回も走破するシーンに惹かれて、「いつの日か俺も似たような事をチャレンジするぞ!」と心につぶやいた。日本の大学時代に所属していた体育会空手道部のイベントがこの気持ちに自信を与えてくれた。空手部では、誰もが必ず4年間に1回は行なわなければならない行事である。内容は、東京日本橋から三重県伊勢神宮まで紋付袴・高下駄・学帽・風呂敷・木刀という姿で約2週間かけて徒破する。目的は全国大会の必勝祈願。夏の暑い中、慣れない高下駄を履き、足の痛みに耐えながら歩き、心身共に鍛えるというもの。

 大学4年になり就職活動もしたが、ピンとくる会社がなく、自分の可能性をアメリカ留学にたくした。オレゴン大学留学が決まり、早速アメリカ西海岸の地図を買った。オレゴン大学からちょうど良い位置にある都市を探した。「シアトル」。走れる!心がそう言った。オレゴン大学から約550km。「よし!やってやろう!」私の頭の中で計算が始まった。1日50kmで約11日間。大学空手道部時代の超ハードな練習、キチガイのような様々な行事を乗り越えてきた私にとっては楽勝だろうと思っていた。アメリカで「何か」をやってやろうと本能がうずいた。本来は、ビジネスを勉強するが目的で留学したのだったのだが…

 オレゴン到着後、オリエンテーションで友達になった友人にこの話をした。「じゃー、スポンサーを募ったらどうだ!?」。偶然にもオレゴン大学はナイキ創設者の出身校であり、ユージーン市はアメリカ陸上競技のメッカでもあった。この時、運命というか、何か目に見えない力が私のプロジェクトを助けてくれているように感じた。また、プロジェクトで重要な役割を果してくれる人物にも偶然的に出会った。プロジェクトが動き始めたある日、「Bean Complex Henderson Hall」で私の隣に住んでいた、日本人留学生(佐藤圭史君)が、「マッサージ出来ますよ。」と申し出てくれた。もし、私が他のドームに住んでいたらどうなっていたことか…

 スポンサーシップ依頼の電話は毎日した。ナイキに毎日のように1日20回電話をした。その度に留守電に回され、メッセージを残す日々が続く。

 しかし、止まっているわけにはいかない。当時、気軽に様々な事が相談出きるような相手がいた。OIEEのアドバイザー・マジッドだ。彼のアドバイスは、様々な学生団体から協力を得たらどうだろうか?というものであった。さっそく様々な学生団体の前でプレゼンをしていくうちに、(ASUO、ISA、PRSSA、Ad-club、RHG等)興味を持った人が一人二人と集まった。そして、集まったメンバーでプロジェクトチームを結成するまでになった。プロジェクト名を「夢を追いかける」という気持ちを込めて、"Pursuit of A Dream"と名づけた。そしてこのプロジェクトチームの名称も、Pursuit of A Dream Committeeとした。Pursuit of A Dreamのメンバーは、アメリカ人過半数、残りインターナショナルスチューデント(韓国人、シンガポール人、スウェーデン人、日本人等)で構成された。多くの学生がジャーナリズム専攻の学生であった。チームは「PR班、スポンサー班、ロジスティックw)ニ鼻廚吠・・譴拭・・侑班は、マスコミ媒体への接触を通じプロジェクトのPR。スポンサー班はスポンサー獲得へ、個人・法人への接触を。ロジスティック班は、行程の確認、宿の手配、バンの手配、ドライバーの手配、下見など日程計画を行った。また、WEBページをスポンサー班で様々なスポンサーを持って来てくれ、様々な助言などをくれた日本人留学生、打谷桂子さんが作成してくれた。本当に頭が下がる思いである。これらの班の進捗状況を確認する為、毎週ウィークリーミーティングを開き、メンバー全員が集まり報告、検討事項を討論した。

 また、プロジェクトを二人三脚で実行した、プロジェクトチェアマン、ニック・マックヴィ―ン氏の力が大きかった事もここに書いておきたい。プロジェクトの途中でしょっちゅう口論になり、文化の違い、考えの違いなどから衝突する事も多々あった。しかし、逆に考えると、それ程真剣にプロジェクトの事を考え、実行してくれていたんだと。後で振りかえると感謝の気持ちで一杯である。本当に彼がいたお陰でここまで出来たんだと思い知らされた。最初は、私の事を助けるという感じで彼も参加しただが、いつの間にか彼のプロジェクトにもなっていた。まるで自分のプロジェクトかのように一生懸命に働いてくれた。ホンダの創設者で技術者であった本田総一郎と経営の藤原武夫の様な関係であった。

 プロジェクトが進むにつれ、あるメンバーの中からどうせやるならチャリティーも兼ねてはどうかというアイディアが浮上。以前から車椅子の人達に興味を持っていたので、車椅子団体を調べた。地元に"World Wheelchair Sports"という団体が見つかった。元パラリンピックアメリカ陸上のコーチが運営する団体だ。プロジェクトの趣旨を話し、是非チャリティになりたいという申し出に、快く承諾してくれた。そして正式にPursuit of A Dreamのチャリティーに決定した。

 車椅子の団体との交流も多々あり、その時々で車椅子に実際に乗ったり、自分が車椅子に乗っていたらどういう気持ちになるか等を実体験した。そうした中で、ある車椅子の恵まれない子供に出会った。名前をロバートといい、感じの良い男子でした。しかし、家庭環境は決して恵まれたものではなく、義理の父親は家で暴力を振るうという中で育っていた。車椅子もボロボロで新しいのが必要であった。このプロジェクトでは買えなかったが、次のプロジェクトで彼に新しい車椅子を買う事が出来た。

 トレーニングの方は、毎日早朝のランニングと、毎週末、大学から空港までの往復約34kmを走っていた。それでもまだ物足りなかったので、冬にはプロジェクトと同じ1日50km(オレゴン大学〜ジャンクションシティーの往復)を連続で11日間走り、実際にプロジェクトの距離を走破し、自他ともに実際に走れるという事を証明した。

 いよいよプロジェクト実施日も迫ってきた。しかしスポンサー探しは苦戦していた。ナイキからの連絡もなく、もう駄目かと諦めかけていた。アディダス・リーボックなど他のスポンサーを探さなければ行けないかと思った時、オレゴン大学出身のナイキの社員がスピーチに来るという情報を得た。これは最後のチャンスだと企画書を念入りに何度も何度も書きなおし、その日を待った。当日、ナイキのスピーチが終わった後、その社員の元に行き、プロジェクトの説明を必死にした。こちらの熱意が通じたらしく、真剣に聞いてくれた。「数日後に電話する。」という返事だった。連絡を待っている数日間は恐ろしく長く感じた。毎日がビクビクしながら過ごした日々であった。そしてそれから数日後の夜。「ジリーン、ジリーン」電話が鳴った。受話器を取って開口一番、「君達のプロジェクトのスポンサーになるよ!」と担当者のクリス・プリンダビルさんが言ってくれた。何とも言えない気分だった。まるで、ずーと求めていた求愛相手からの返事を待っているかのようだった。ずーとすっぽかされて、もう駄目かと諦めかけていたとき、相手から「OK」の返事をもらった感覚に近い気がする。

 そして、その出来事からプロジェクトは好転しだした。スポンサー班も苦戦しながらも、徐々にスポンサーシップを取り始めた。地元の小さな商店から、ODWALLA(ジュース)、Frito−Lay(お菓子)、コピー会社からは、○○分のコピー代無料など。

 コースの下見は、延期につぐ延期でようやく実行できたのは、プロジェクト間近だった。実際に走る道を下見するうちに、自分の中で「ぎょっ!こんな長いのか…」という一抹の不安がよぎった。しかし、実際に走った時は、逆にこんなにあっという間なのかと感じたが…

 いよいよプロジェクト開始間近、宿泊先のスポンサーを取れない場所があったり、運転手が決まっていなかったりと間近までドキドキさせられたが、プロジェクトのメンバーが、私はトレーニングに集中したいだろうという気遣いから、「俺達に任せろ!」という感じでみんなで必死になって取り組んでいた姿勢が印象的であった。最初は、私一人のプロジェクトが、今や、彼らのプロジェクトになってきているんだ。そして、これは、私達みんなのプロジェクトになっていた。この時痛感したのは、自分一人ではここまで出来なかっただろうとつくづく思い知らされた。みんなの協力を得てここまで出来るんだと…私はどちらかというと、自分一人でどんどんやってしまうタイプなので、これは考えさせられた。

 いよいよ明日から始める。そう思うとなかなか寝付けず、前夜は数時間寝た程度だった。ルームメイトのもう一人のニックも、プロジェクトに協力してくれた一人で、部屋にいるときは色々と気遣ってくれた。
 
 いよいよスタート当日、眠い目を擦りながら、これから毎日始まるローテーションをやり始めた。佐藤君によるマッサージが足全体に満遍なく施され、キネシオテープを足に巻き、足の負担を軽減した。スタート地点のEMUと13thが交わっている交差点には、テレビ局数局、ラジオ局、新聞社、Pursuit of A Dreamのメンバー、関係者、友人、そして大学の副学長までも見送りに来てくれた。さっそくテレビ局によるインタビュー開始。緊張していた私は、自分が何を言っていたのかさっぱり覚えていない。

 いよいよスタート。最初の数マイルをチャリティーのボスと車椅子の子供と一緒に走った。そしてそこからは、いよいよ走るのは私一人だけの世界。バンは数キロ先で私が来るのを待っていた。バンに到着した私を待っているのは、マッサージとスポーツドリンクと休憩だ。約10分くらいのち、またバンが待っている地点まで走るという繰り返し。昼食時は、約1時間くらいとり、ゆっくり休憩できるので、午前中の目標は常にそれだった。それからまた同じパターンで午後の走りが始まる。日々のノルマが終わるのは、大抵夕方。しかし、日によってはノルマが長い場合や、コンディションが良くないときは、夜暗くなってから目的地に着く事もあった。

 そんな中、4日目にアクシデントが起こる。ポートランド付近についた時、突然足首に恐ろしい激痛が走った。あまりの痛さでずーとびっこを引いていた。日程的に予定より先に進んでいたので、この日は大事をとって早めに切り上げる。翌日の朝、恐る恐る起きてみるとまだ前日の痛みを引きずったまま。マッサージ師の佐藤君は、最悪は足をテーピングでぐるぐる巻きにしようと考えていた。さあ、走り始めたらやはり痛みが残っていた。痛みをカバーするあまりに、今後は逆の足に負担が蓄積し始めた。数日間は、様々な足の痛みに苦しんだ。しかし、そんな痛みも強烈「キーン!」という痛みを最後に見事になくなった。

 走った行程は、最初の数日間を抜かしてはほとんど平らなカントリーロード。オレゴン州内を走っていた時は、車からこのプロジェクトを知っている人達から声援・クラクションによる応援などをいただいた。ワシントン州では、プロジェクトの認知度がなかったせいか、応援は全くなかった。

 昼の食べ物は、佐藤君が作ってくれた手作りのおにぎりと、サンドイッチ系。夜は何でも好きな食べ物を食べた。ハンバーガー、中華料理、TacoBellも…

 ゴールに近づくにつれて、嬉しい反面淋しくもあった。「もう終わってしまうのか… あっと言う間だったな…」と心でつぶやいた。逆にPursuit of A Dreamのメンバーは喜んでいた。終着点のワシントン大学レッドスクエアについた瞬間、「へ…これで終わり!?物足りないな…もっと走りたいな…」と思った。祝福に来たメンバー達は大喜び!チェアマンのニックは、「やったな!」と私に握手を求めてきた。私は、「朝飯前だよ!」と返答した。頭の中では次の走りの計画がすでに始まっていた。そして、半年後の9月この倍の距離1000km(サンフランシスコ〜オレゴン大学)を走破した。

 このプロジェクトを通して痛切に感じた事は以下の事でした。

@「夢は叶う」 どんな夢でも叶うという事。ただ、重要なことは「どれだけ叶えたいと思うか」だと思う。 もし本当に叶えたいと思うのであれば、それが行動に現れ、実現に限りなく近づくはず。多く   の人がやはりどこかで「やっぱり無理かも」とか100%それに力を注げないからかなと思う。

A「一人では何もできない」 どちらかというと何でも一人でやってしまう性格なので、この事を強く実感した。みんなの助けで 成功に導けたし、煮詰まったときに斬新なアイディアを出してくれたのもメンバーであった。

B「アメリカ・オレゴン大学の懐の広さ」 アメリカンドリームは実在し、可能性を伸ばす環境が整っている。どちらかというと短所は目をつぶり、長所をとことん伸ばす文化だからこそ、このプロジェクトには適切な環境だったのだろう。こういう環境がこのプロジェクトを可能にした要因の大きな部分を占めていると思った。"Land of opportunity"可能性の国、「アメリカ」の一言です。また、このプロジェクトのファンの一人、学長の フロンメイヤー氏の寛大な心にも多く支えられた。(様々な大学側からの支援)

 このプロジェクトは私にとって一生の思い出であり、いつでも自分を見失いそうになった時、自分とは何なのかという問いを思い起こさせてくれるルーツだと思っております。今後もこれに満足せず、Pursuit of A Dreamのモットー、「様々なプロジェクトを通して人々の心を奮い立たす」を実戦したいと思っております。このプロジェクトの事を話させていただく機会を作ってくださった、オレゴン大学同窓会日本支部の細田会長をはじめ、同窓会の方々にこの場を借りて感謝します。ありがとうございました。

Pursuit of A Dreamのホームページがまだ残っているので興味ある方はどうぞ!http://gladstone.uoregon.edu/~ddream

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