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ヨルダン体験 河村多恵子 94年 Int'l Studies
私は、オレゴン大学を1994年の秋卒業後、1年間アメリカでの仕事を経験し帰国しました。その年の夏より、国際協力事業団(JICA)の医療協力部の特別嘱託として中近東のヨルダンに長期専門家としての訓練を受け、派遣されることになりました。ご存知のようにJICAは途上国に対する援助(ODA)をつかさどる機関で、ヨルダンにとっては初めてのプロジェクト形態の技術協力となりました。
私達は、女性、男性二人ずつの4人からなるチームで編成され、「家族計画、WID」と名づけられました。私は、WID(Women
In Development)つまり「開発と女性」の担当でした。このプロジェクトは、ヨルダンの高い人口増加率(4.3%)を抑制するのが目的ですが、その為には家族計画の促進にWIDの基本概念である、女性が社会的・経済的な力をつけ、女性達の選択の幅を広げ、これらの活動に参加することによって自己決定力を養うことが、ひいては家族計画に貢献すると言う、カイロ人口
・ 開発国際会議(1994)での合意が根底にあります。
プロジェクトの地域は、首都アンマンから約150キロ離れた死海南西部の総人口約3万人の6つの町村からなり、この地域は海抜マイナス300メートルの世界で最も低い位置にあります。ここにプロジェクトの車で、ほぼ毎日往復3時間をかけて通いました。行きは死海を右手に見ながら、帰途は左手に見ながらでしたが, 毎日微妙に死海の色が変わることがわかりました。道は舗装されているのですが、スピードを出すので何度も怖い思いをしましたし、途中動物(主に犬)が轢かれていて、その死体を誰が片付ける訳でもなく、一月ぐらい経つと、毛だけが風に揺られていることもありました。
さて、その私の仕事ですが、先ずはその地域住民を対象とした聞き取り調査を行いました。この調査は時間がかかる仕事で、住民の中から20組の夫婦と20人の未婚女性を選出し、一軒一軒訪問し、あらかじめ用意しておいた共通の質問を一人一人にしていきました。家庭訪問は住民の生活を垣間見ることが出来て大変参考になりました。貧しい家庭がほとんどですが、それでもお客様として精一杯もてなしてもらい恐縮したのを覚えています。子供が多い家庭では、日本人の訪問は初めてなので子供達が最初はおずおずと、そのうち隣に座って私の顔をじっと飽きずに見ていたのも印象に残っています。
この調査はすべてアラビア語と英語で、私のカウンターパートが通訳をしてくれたので、毎晩その日の記録はすべて英語で記録しました。朝6時に起きて、寝るのが夜中という日が続きましたが、調査そのものは楽しく行うことができました。
さてこの次に行なったのは、この地域の女性達の中からプロジェクトに参加するボランティアを選出することでした。先ずは3箇所に分けて、2日ずつワ−クショップをおこない、やる気のある女性を選出しました。選ばれた女性は、若くしかも既婚者は一人のみでした。この理由は、既婚女性は先ず自由な時間がないこと、外で働くのが夫によって禁じられている場合が多いためです。未婚の場合も家族の、特に父親か家長の許可が必要で、なかなか理想通りにはいきませんでした。それでもこの女性達を先ず訓練し、そして一緒に働いていく過程で少しずつ信頼感が生まれるようになったのは何より嬉しいことでした。大切なことは、ただ命令するのでなく、私が最初にやってみること、これはゴミを捨てるところから始まりました。また、約束は守ること、もしやむを得ず破らなければいけない場合もきちんと説明すること、これは誰に対しても同じであるべきですが、途上国の人に対してともすれば日本人として忘れる人がいるからです。
2年間という限られた時間の中での活動だったので、最初に計画していたようにはことは運びませんでしたが、少なくともプロジェクトが始まって1年半ごろにはこの若い女性達から時としてはっとさせられるようなアイデアが出て来たり、より多くの女性が参加を希望して尋ねて来たり、彼女の家族、特に父親から励まされたりして、苦労が報われてきたことを感じました。
ヨルダンはご存知のようにイスラム圏で、特に農村地帯は100%がモスリムですが、女性が女性に接する限りでは、当初思っていたより楽でした。反面男性には大変気を使いましたし、服装や言動にも注意しました。また、この地域では、私のような独身女性が外国で家族と離れて暮らすというのは考えられないので、信じてもらえるまで時間がかかりましたが、本当だと分かると何故か同情されていろいろと面倒を見たがり、苦笑したこともありました。今となってはすべてが懐かしい思い出ですが、来年あたりにまた行ってみようかなと考えているところです
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